たいやきソウル
感じたことを感じたままに、文学・映画・音楽を中心に書いていきます。
野村芳太郎版 「八つ墓村」('77)
薄闇の中満開の桜を背負って、一人の男が日本刀と銃を掲げて村へ走っていく・・・若き山崎努が恐ろしい殺人鬼を怪演している。印象的で美しいシーンだ。
テレビドラマで見たことのあった八つ墓村だが、野村芳太郎監督の映画版を通しで観たのは今回が初めてだった。祟りが実在するという物語になっており(脚本は橋本忍)、金田一の探偵映画というよりは怪奇・恐怖映画であるが、スタッフの並々ならぬ気迫が感じられる傑作で、俳優陣の演技も素晴らしかった。
賞金に目がくらんだ村人による落武者惨殺のシーン、その惨殺首謀者の子孫の32人殺しと、正視できないような殺人シーンの数々は確かにおぞましいのだが、観終わって私がまず抱いた印象は、「・・・悪いことはできんね」という驚くほど素朴なものだった。
落武者の頭領(非常にりりしい夏八木勲)は、血まみれになりもう死ぬという時に「おのれ卑怯な。だまし撃ちとは」とつぶやき呪詛の言葉を吐く。最終的には落武者たちが死ぬことになっても、このやり方でなかったなら四百年にわたる祟りは生まれなかったかもしれない。農民たちも落武者たちをその武力から恐れていたかもしれないし、彼らなりの事情があったのかもしれない。しかし、祭に招待しもてなしているところで毒や農工具で殺害するなどとは落武者でなくてもあんまりだと思う。村人は「祟れるもんなら祟ってみやがれ」ととどめをさすが、自分に降りかからなくても子どもや子孫にそれが大きな問題になるとは考えない。
なんだか環境問題みたいだけれど、今自分がした悪事で何かが損なわれ、そのツケは自分でなくても子どもたちが払わせられる。この物語のヒントになった津山事件も、犯人は兵隊になれなかったことから村人から虐めにあっていたと聞いた。小川真由美が妖怪と化しショーケンを追い掛け回すという、私がこの映画で一番怖かった場面を見つめながら、私はそんなことをぼんやり考えていた。
殺害シーンが残酷に描かれているのは好感が持てた。殺される者の恐怖と痛みをきちんと描くことは大切だと思う。それにしても農具で殺すのは本当に恐ろしい。作物を作る道具が殺人の道具になるって、おお・・・。
テレビドラマで見たことのあった八つ墓村だが、野村芳太郎監督の映画版を通しで観たのは今回が初めてだった。祟りが実在するという物語になっており(脚本は橋本忍)、金田一の探偵映画というよりは怪奇・恐怖映画であるが、スタッフの並々ならぬ気迫が感じられる傑作で、俳優陣の演技も素晴らしかった。
賞金に目がくらんだ村人による落武者惨殺のシーン、その惨殺首謀者の子孫の32人殺しと、正視できないような殺人シーンの数々は確かにおぞましいのだが、観終わって私がまず抱いた印象は、「・・・悪いことはできんね」という驚くほど素朴なものだった。
落武者の頭領(非常にりりしい夏八木勲)は、血まみれになりもう死ぬという時に「おのれ卑怯な。だまし撃ちとは」とつぶやき呪詛の言葉を吐く。最終的には落武者たちが死ぬことになっても、このやり方でなかったなら四百年にわたる祟りは生まれなかったかもしれない。農民たちも落武者たちをその武力から恐れていたかもしれないし、彼らなりの事情があったのかもしれない。しかし、祭に招待しもてなしているところで毒や農工具で殺害するなどとは落武者でなくてもあんまりだと思う。村人は「祟れるもんなら祟ってみやがれ」ととどめをさすが、自分に降りかからなくても子どもや子孫にそれが大きな問題になるとは考えない。
なんだか環境問題みたいだけれど、今自分がした悪事で何かが損なわれ、そのツケは自分でなくても子どもたちが払わせられる。この物語のヒントになった津山事件も、犯人は兵隊になれなかったことから村人から虐めにあっていたと聞いた。小川真由美が妖怪と化しショーケンを追い掛け回すという、私がこの映画で一番怖かった場面を見つめながら、私はそんなことをぼんやり考えていた。
殺害シーンが残酷に描かれているのは好感が持てた。殺される者の恐怖と痛みをきちんと描くことは大切だと思う。それにしても農具で殺すのは本当に恐ろしい。作物を作る道具が殺人の道具になるって、おお・・・。
映画「蟲師」、日本原風景ロードムービー
アニメも原作も知らずに映画「蟲師」を見た。監督・脚本は大友克洋、主演は最近キムタク化(何を演じても本人のキャラに見えることと私は定義している)しつつあるオダギリジョー。ちょっぴり期待して見たのだが、どうにも世界に入っていけず、注意力散漫な状態で見ていた。何とか最後まで見たものの、眉間のしわが取れることはなかった。
明治以前の日本のような田舎を舞台に、どうしてだか洋服らしき服装をした蟲師が旅をし、その行く先で様々な蟲事件に遭遇し格闘する。ロードムービーという点では子連れ狼と印象がかぶる。どう見てもスタイリッシュな白髪と現代標準語で話すオダジョーにまず違和感を感じ、江角マキコのただ吠えるだけの演技に苦笑した。大森南朋はいい役者と再確認したけれど。
原作の人気が高かったせいなのか、原作かアニメを知っている人を観客の対象としているように思えてならなかった。独立した映画という感が薄い。設定が面白いだけに、映画化するにもいろんな味付け方、世界観の持たせ方があったと思うが、中途半端な作品で終わってしまった。
原作を読んでみたいと思ったのが今思いつくグッドポイントだろうか・・・。
明治以前の日本のような田舎を舞台に、どうしてだか洋服らしき服装をした蟲師が旅をし、その行く先で様々な蟲事件に遭遇し格闘する。ロードムービーという点では子連れ狼と印象がかぶる。どう見てもスタイリッシュな白髪と現代標準語で話すオダジョーにまず違和感を感じ、江角マキコのただ吠えるだけの演技に苦笑した。大森南朋はいい役者と再確認したけれど。
原作の人気が高かったせいなのか、原作かアニメを知っている人を観客の対象としているように思えてならなかった。独立した映画という感が薄い。設定が面白いだけに、映画化するにもいろんな味付け方、世界観の持たせ方があったと思うが、中途半端な作品で終わってしまった。
原作を読んでみたいと思ったのが今思いつくグッドポイントだろうか・・・。
衝撃から生まれるもの (映画「バベル」)
今日、2006年製作の映画「BABEL」を見た。モロッコの少年が腕試しに銃を発砲、その波紋が国を越えて広がっていく物語。銃が世界の人々にもたらす暗い影やコミュニケーション不全が招く悲劇を描いた、作家性の高い作品だ。聾唖の女子高生を演じた菊地凛子は評判通りの見事な演技であった。
監督・原案のイニャリトゥは、境界を形成するものは言語・文化・人種・宗教ではなく私たちの中にあり、真の思いやりを持つことで私たちはつながることができる、と述べている。・・・自分と同じ感覚を持つ人間であると実感しない限り、相手へ真の思いやりを持って接することは不可能だろう。あらゆる偏見の原因は対象についての知識の欠如とよく言われるが、知るというのは非常にしんどい、難しいことであり、人類がみなあらゆる偏見の対象について知り、思いやりを持つことは可能性薄だ。それに知識のある者でも偏見を持つ人間はいる。この場合は偏見を持つことを無意識的にもよしとし、好んでするのであり、そのほうが自分の立ち位置が心地よいものとなるからするのだ。でもそれでは八方塞がりじゃないか。そんな中で真の思いやりなんて、どうやったら可能だというのか?
しかし極限状態にあるからこそ人間は心を開くということがある。この映画でも、登場人物たちはことごとく悲惨な状態に陥っていく。そんな中で、もう自分の体しかぶつけられない中で、彼らは叫ぶ。国が違い、言葉が理解できなくても、とにかく叫ぶ。そしてそれを受け止める人がいる。その出会いに賭けるしかないのかもしれない。命と言葉のぶつかり合い。分からない者同士でも、その衝撃からきっと希望は生まれる。
監督・原案のイニャリトゥは、境界を形成するものは言語・文化・人種・宗教ではなく私たちの中にあり、真の思いやりを持つことで私たちはつながることができる、と述べている。・・・自分と同じ感覚を持つ人間であると実感しない限り、相手へ真の思いやりを持って接することは不可能だろう。あらゆる偏見の原因は対象についての知識の欠如とよく言われるが、知るというのは非常にしんどい、難しいことであり、人類がみなあらゆる偏見の対象について知り、思いやりを持つことは可能性薄だ。それに知識のある者でも偏見を持つ人間はいる。この場合は偏見を持つことを無意識的にもよしとし、好んでするのであり、そのほうが自分の立ち位置が心地よいものとなるからするのだ。でもそれでは八方塞がりじゃないか。そんな中で真の思いやりなんて、どうやったら可能だというのか?
しかし極限状態にあるからこそ人間は心を開くということがある。この映画でも、登場人物たちはことごとく悲惨な状態に陥っていく。そんな中で、もう自分の体しかぶつけられない中で、彼らは叫ぶ。国が違い、言葉が理解できなくても、とにかく叫ぶ。そしてそれを受け止める人がいる。その出会いに賭けるしかないのかもしれない。命と言葉のぶつかり合い。分からない者同士でも、その衝撃からきっと希望は生まれる。
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