たいやきソウル
感じたことを感じたままに、文学・映画・音楽を中心に書いていきます。
衝撃から生まれるもの (映画「バベル」)
今日、2006年製作の映画「BABEL」を見た。モロッコの少年が腕試しに銃を発砲、その波紋が国を越えて広がっていく物語。銃が世界の人々にもたらす暗い影やコミュニケーション不全が招く悲劇を描いた、作家性の高い作品だ。聾唖の女子高生を演じた菊地凛子は評判通りの見事な演技であった。
監督・原案のイニャリトゥは、境界を形成するものは言語・文化・人種・宗教ではなく私たちの中にあり、真の思いやりを持つことで私たちはつながることができる、と述べている。・・・自分と同じ感覚を持つ人間であると実感しない限り、相手へ真の思いやりを持って接することは不可能だろう。あらゆる偏見の原因は対象についての知識の欠如とよく言われるが、知るというのは非常にしんどい、難しいことであり、人類がみなあらゆる偏見の対象について知り、思いやりを持つことは可能性薄だ。それに知識のある者でも偏見を持つ人間はいる。この場合は偏見を持つことを無意識的にもよしとし、好んでするのであり、そのほうが自分の立ち位置が心地よいものとなるからするのだ。でもそれでは八方塞がりじゃないか。そんな中で真の思いやりなんて、どうやったら可能だというのか?
しかし極限状態にあるからこそ人間は心を開くということがある。この映画でも、登場人物たちはことごとく悲惨な状態に陥っていく。そんな中で、もう自分の体しかぶつけられない中で、彼らは叫ぶ。国が違い、言葉が理解できなくても、とにかく叫ぶ。そしてそれを受け止める人がいる。その出会いに賭けるしかないのかもしれない。命と言葉のぶつかり合い。分からない者同士でも、その衝撃からきっと希望は生まれる。
監督・原案のイニャリトゥは、境界を形成するものは言語・文化・人種・宗教ではなく私たちの中にあり、真の思いやりを持つことで私たちはつながることができる、と述べている。・・・自分と同じ感覚を持つ人間であると実感しない限り、相手へ真の思いやりを持って接することは不可能だろう。あらゆる偏見の原因は対象についての知識の欠如とよく言われるが、知るというのは非常にしんどい、難しいことであり、人類がみなあらゆる偏見の対象について知り、思いやりを持つことは可能性薄だ。それに知識のある者でも偏見を持つ人間はいる。この場合は偏見を持つことを無意識的にもよしとし、好んでするのであり、そのほうが自分の立ち位置が心地よいものとなるからするのだ。でもそれでは八方塞がりじゃないか。そんな中で真の思いやりなんて、どうやったら可能だというのか?
しかし極限状態にあるからこそ人間は心を開くということがある。この映画でも、登場人物たちはことごとく悲惨な状態に陥っていく。そんな中で、もう自分の体しかぶつけられない中で、彼らは叫ぶ。国が違い、言葉が理解できなくても、とにかく叫ぶ。そしてそれを受け止める人がいる。その出会いに賭けるしかないのかもしれない。命と言葉のぶつかり合い。分からない者同士でも、その衝撃からきっと希望は生まれる。
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